殺セウム

 

ヤキのまわったレフリー/フルイタチ・いじろう!

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プライバシー暴露・リンク禁止。次回の対戦者は常に受け付けマスが、闘うかどうかは対戦者次第。

第十試合終了

試合結果 ○啓蒙主義者(1R その通り)●デス見沢デス彦


第1R/(後攻)デス見沢デス彦

以下の件につき、異論はありません。その通りだと思います。あ、おわっちゃった。

ひとことだけ。サヴァイヴァーに対しては何もしないでそっとしておけ、というのには大賛成。

無闇にサヴァイヴァーを増やす手助けもしないし。


第1R/(先攻)啓蒙主義者

 

 初めに言っておきますが、私は被虐待経験がありますが、自分のことをACとかサヴァイヴァーと呼ぶ趣味はありません。理由は簡単、ACとかサヴァイヴァーと言うのはイケてないから。すごい美人とかイイ男のACとかサヴァイヴァーと言うのはほとんど見かけません。理由を推測するに、美人に生まれると、親が可愛がり、大切に育てられるのかもしれません。あるいは虐待を受けても、美人だと周りの男からチヤホヤされ、結構楽しく暮らしていけるので、ACと考える必要がない、ということもあるかもしれません。実際、山口百恵などは酷い虐待を受けて育ったそうですが、美貌と才能ゆえに成功できたので。ただ、彼女の醸し出す陰のある雰囲気は虐待と関係があるのでしょうが、それさえも魅力になっていました。ただし、中森明菜やダイアナのように、美人でモテたとしても、さまざまな問題行動を起す、ということはありますが。こう考えてくると、ACとかサヴァイヴァーというのは、親からは虐待され、ルックスも才能もかけているため他人にも認められない、可哀想な人たちなのです。その人たちがやっと斉藤学氏を教祖とするACという宗教を見つけて、藁にもすがる思い出すがり付いているのですから、そっとしておいてあげましょう。

 

>自分のことを棚に上げて親を攻撃する馬鹿野郎たちをどんどん駆逐していこうではありませんか。

 これは人間の形成は如何に行われるのか、という問題と関係しているので、軽々には馬鹿野郎といえません。それには遺伝、環境、自分の意思、の三つが絡み合っていますが、どれがどのように作用して人間が出来上がるのかは未解明です。それゆえその人たちの問題が、親という環境による部分が極めて大きく、自分の意思による部分が極めて小さいならば、親を攻撃するのも当然、ということになります。

 よく「親のせいにするな」などという言い方がなされます。しかし、それが真実親のせいでない、ということを何を根拠に言いうるのでしょう。真実は誰にも分かりません。親のせいかもしれないし、そうでないかもしれない。しかし、当人がそう言っている以上、それなりの理由があるのでしょ。火の無いところに煙は立ちません。また、親の養育が子の人間形成に極めて大きな影響を及ぼすことを指摘する医師、心理学者などは、門外漢の私が知るだけでも、フロイト、フロム、ウィニコット、クライン、コフートなど枚挙に暇がありません。凶悪な犯罪者の大部分が生育暦に問題があることは統計上明らかです。少年が事件を起こすと、その処遇を決するため、家庭裁判所調査官により、生育環境の調査が行われます。

 

 これらのことから考えると、問題を抱える人の背後には親の問題がある、と考えるのはむしろ当然ともいえます。

 多くの人はそれを認めつつも、本人が言うと、非難するのです。しかし、これは一貫性に欠ける態度というべきでしょう。第三者が言っていいなら、本人も言っていいはずです。問題に最も関係が深いのですから。

 真に親に問題があったなら、それを攻撃することは何ら不当ではないし、悪を糾弾するという意味では「正義」とさえいえるでしょう。それにもかかわらず、被害者たるACをバッシングして、その声を抑圧し、結果的に加害者たる親を容認するとは何たる不正義でしょう。

 

>虐待が実際にあったのか、妄想にすぎないのか、ということは、第三者が判定できることではありません・

 確かに、跡が残らないような身体的虐待や、心理的虐待の多くはそうでしょう。しかし、酷いやけどの後や障害が残っている場合や、第三者の証言が得られる場合もあります。

 そもそも神ならぬ人間には、過去に何があったかを100%性格に判定できるはずはありません。裁判においても、証拠によって立証できた限度の真実=訴訟的真実が現れるに過ぎず、常に誤判の可能性があります。それゆえ、この問題についても様々な根拠を集め、合理的に推論するしかないでしょう。そこでは当人の自己申告が重視されるべきです。ちょうど犯罪において被害者の申告が重要なように。

 

 「妄想」という言葉からはフロイトの「家族小説」の考え方(家族から性的虐待を受けた、と患者が言うのは事実ではなく、むしろそういう願望を表しているのだ、という考え)を想起させます。しかし、それは当時の保守的な空気にフロイトが屈し、自説を改めたに過ぎない、という見方もあります。また、「親が子に性的虐待などするはずが無い、むしろそれをおまえは望んでいるのだ」などといわれることによって、どれだけ多くの性虐待の被害者が沈黙を強いられ、悔しい思いをしてきたでしょう。これはセカンド・レイプの一種です。このような発想は結局被害者を責め、加害者を結果的に擁護することにしかならないことを考えるべきです。

 さらにそもそも「第三者が判定」する必要があるのでしょうか。法的に被虐待児を保護するような場合と、ACと自分で認知する場合とは別個に考える必要があります。ACというのは、親の虐待により自己評価が低く、「自分はダメだ」と思っていろいろ困難を抱えている人が、虐待の事実を認識することによって、「自分ではなく、親が悪かったために、自分はダメだ、と思い込まされていただけなのだ」と認識して自尊心を取り戻し、よりよく生きて行けるようになるための道具的概念なのです。決して第三者が「おまえはACだ」と規定するためのものではありません。

 

>アメリカの精神医学の最新の問題点にも、精神科医によって偽の虐待の記憶が導き出され、それによって親がいわれ無き攻撃を受けている、ということがあります。

 虐待があったのかどうか第三者には判定不能、と言って置きながら、何故「偽の」虐待とか、「いわれ無き」攻撃とかいえるのでしょう。矛盾があるようです。

 それは置くとしても、そしてそのような問題があるとしても、そのような些細な弊害を重視すべきではないでしょう。問題は、虐待を受けた人がどうやって、よりよく生きていくか、ということです。そのためにACという概念が一定の効用を発揮している以上(原因を知ることによって楽になる、という人もいる)、その点を重視してこの概念を肯定すべきです。

 偽の記憶の問題は精神科医のアプローチを改善することにより解決すべき問題であり、本質論ではありません。

 

>どこまでが「しつけ」で、どこからが「虐待」であるのかという線引きも不明瞭です。

 確かに現在立法化に向かっているといわれる虐待防止法の法案においても、虐待の定義をどうするかは、かなり議論があるようです。そして、虐待発見者が児童相談所に通報するような段階と、被虐待者を救うため家庭に強制的に立ち入る場合とでは、虐待の定義が変わって当然、ともいえ(後者が狭いはず)、困難な問題です。

 法律の議論を除いても、論者により虐待の定義は一致しません。

 しかし、厚生省でさえ昨年虐待の定義を拡大し、身体的、精神的、性的など虐待の分類を設定しており、ガイドラインは存在しています。そこでは、親の意図にかかわらず、障害を残すような態様や、子供が心理的に傷を負うような場合には虐待とされています(199年7月上旬の朝日新聞による)。

 虐待の定義が不明瞭であるからこそ、このような指針を社会の共通認識として広めていく必要があり、逆に不明瞭を理由に虐待問題をあいまいにすべきではありません。

>普通に叱られたことが本人にとっては「虐待」なのかもしれないし。

 普通に叱られることは上記の定義によれば、原則として虐待にあたらないことになります。ただ、子供が極端にデリケートな場合、心理的に大きな傷を負ってしまい、虐待となるかもしれません。しかし、親は子供の特性に合ったしつけをすべきであり、それができなかった以上、虐待と言われてもやむをえないでしょう。

 また、何が普通かも、時代により、所により変わるのであって、人権思想(お嫌いなようですが、人権への正しい理解を欠くと思います。が、ここでは触れません)の深化により、以前は普通であったものが、現在では虐待とされる、ということは大いにありえます。過去において普通として許されたからと言って、現在許される、とは必ずしも言えません。

 

>斉藤学氏は「自分はACだから何とかしてくれ」という患者に取り囲まれて辟易し、

 それを誘発するような本をたくさん書いている以上、一種の自業自得でしょう。自己決定については自己責任をとってもらいましょう。

 ACを攻撃したい人は、日本における紹介者の斉藤学氏を攻撃するのがスジなのではないか、と思われます。氏はいわば「尊師」であり、ACは「信者」みたいなものですから。

 因みに、氏の病院では何故か退職する医師が相次ぎ、ホームページで医師募集の広告を打ったり、何の経験も無い小児科医を引っ張り込んで診察させたりしているらしく、上手く機能しているのか、疑問がもたれています。

 

>現在は「サヴァイヴァー」「スレイバー」という概念によって被虐待経験のある人の治療していってます。

 「AC」を「サヴァイヴァー」と言い換えても、それは言葉の問題に過ぎないでしょう。その点で斎藤氏の考えには疑問です。中身が同じならば呼び方だけ変えても意味はありません(中身を変えろ、といっているのではありません)。「AC」と「回復者」とでもしとけばいいのでは。ただ、氏としてはACに対するバッシングをかわそうと言うねらいがあったみたいですが。

 「スレイバー」は正確には「スライバー」です。「スレイバー」では「奴隷」になってしまいます。

 

>今俗に「AC」と呼ばれている人たちの多くは

 何度も言いますが、ACとは他人がラベリングするものではありません

 

>自分は虐待を受けていたんだから動物を虐待しようが子供を虐待しようが仕方ない、という考えを持っている人が多く

 これがあるとすれば由々しき問題だと思います。虐待を受けて育ったことには十分同情の余地がありますが、だからといって自分が虐待していい、ということには全くなりません。自分の行動の責任はとるべきです。

 虐待については親から子へと続く「世代間連鎖」が強調されますが、それはそのような構造を明らかにすることによって、将来の虐待を防止するためです。それを逆に自分の行う虐待の正当化に使う、ということは本末転倒もいいところです。

 しかし、このような人がACの多数を占めている、というのは疑問です。

親から得られなかった「承認」を求めて、他人に過剰に同調して自分を押し殺していたり、親との関係で「人に対する基本的信頼」を抱けなかったために、社会に適応できず、家にこもっていたりするのが、ACの多数ではないでしょうか。その意味で、大部分のACは人畜無害であり、攻撃されるいわれは無いと思われます。「酒鬼薔薇」にしろ「てるくはのる」にしろ生育暦に問題があったことは一般に認識されていますが、彼らも自分でACといっているわけではありません。

 先生のところにはそういう問題ある患者が来るのでしょうが、その人たちがACを自覚している人の多数派とは限りません。それを多数派と考えてしまうのは「過度の一般化」ではないですか。

 

>私はACという言葉を攻撃しているのです。

 言葉なんか攻撃したって始まりません。今まで「AC」といっていた人が「サヴァイヴァー」と言い換えたら、「サヴァイヴァーという言葉をまた攻撃するのですか。

 それに過去ログを見ると明らかに「自称AC」という人を攻撃しています。

それについては、繰り返しますがACというのはそもそも診断名ではなく、自称するところに特色があること(臨床心理士の信田さよ子が強調している)を指摘しておきます。仮にACというに値しない「自称AC=偽AC」というものを考え、それには批判する余地があるとしても、それにより「真のAC」までが萎縮して「自分は「自称AC=偽AC」じゃないだろうか」と悩んで声を上げられなくなる恐れがあります。それでは、ACという概念の効用は失われてしまいます。ACやサヴァイヴァーという人たちはそっとしておいて上げるのが一番なのです。

 

書き込むのに異常に時間を食ってしまったため、今回で投稿は最後にします。


 現在までの試合結果

第一試合 試合結果  ◯KKK(5R 西原レポート固め)●alis

第二試合 試合結果  ◯寿五郎(3R レフリーストップ)●サラリーマン

第三試合 試合結果  ◯皇帝(4R 陪審6:4)●珍宝院釈法伝(あれ? 引き分けにするとか言ってなかったっけ?)

第四試合 試合結果  ◯パプリカ(8R 判定3:2)●いろいろ

第五特別試合 「自称」アダルトチルドレン問題

第六試合 試合結果  ◯猫屋敷たま(3R 判定9:0 無効1)●たまだんR

第七試合 試合結果  △壱号(5R レフリー判定引き分け)△市号,邪悪神父

第八試合 試合結果  ○duhaust(バトルロイヤル)

第九試合 試合結果 △バカボン(2R レフリー判定引き分け)△ダイオキシン


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